私が受け取った想い、届けたい想い
初めての登山は岩湧山へ
「北原叶《きたはら かなえ》さん、ですか?」
「あ、はいっ、そうです!」
私は自分の名前を呼ばれ、ハッとする。
声を掛けてきたのは、穏やかな雰囲気の女性だった。
年は私より一回りも二回りも上だろう。
確か登山歴二十年以上と書いてあったはず。
ただ、そんな年齢には見えないくらいに若々しく見えた。
「どうも初めまして。『ギルド』の主宰を務めている山口《やまぐち》です」
「初めまして、北原です。今日はお世話になります」
『ギルド』とは登山コミュニティの名称だ。
その活動内容はライトな層への普及と指導を中心としているらしい。
かくいう私もこれから人生初の登山に挑む人間だった。
社会人になって三年。後輩も出来て、仕事に少し余裕が出てきた。
そうして思うようになったのが、自分には趣味がないということ。
仕事終わりも、休日も、大したことをせずに過ごしてしまっていた。
なので、新しい趣味を作ろうと思った。
中高はソフトボール部に所属しており、昔から運動は得意なので身体を動かすことが良かった。
加えて、これまで見たことがないような綺麗な景色を見てみたいという気持ちもあった。
そんな条件を満たす趣味として前から興味があったのが登山だった。
とは言え、少し調べただけでも迂闊な登山の危険性についてが湧いて出てきたので、ハードルが高いと思えてしまう。
そんな風に悩んでいたところで偶然見つけたのが、『ギルド』のサイトだった。
女性限定、初心者歓迎、丁寧に指導します、という文言に惹かれた。
意を決して連絡を送ってみたところ、山口さんからの返事が来て今日の登山に誘われたのだ。
そして、待ち合わせ場所にやって来たところ、すぐに彼女が話しかけてくれたのだった。
他のメンバーに簡単に紹介してもらい、早速登山が開始された。
登っていくのは大阪府にある岩湧山だ。
家族連れも多い初心者向けの山らしく、登山口から二時間しない程度で山頂に着くのだとか。
「ふっ……ふっ……」
最初は少しきつめの急坂があったが、登り切った先は林道となっており、自然の中へと踏み込んでいくのが感じられた。
それ以降は緩やかな斜面がしばらく続いた。
道も意外と歩きやすい。
それなりに整地されているようだ。
もっと大変な道を歩いていくようなイメージが頭の中にはあった。
まあ、それなら家族連れにはとても向いていないだろうけれど。
私は少し拍子抜けの気分で歩いていた。これなら余裕かもしれない。何なら他の人の歩くスピードは遅いくらいに思えた。
「ペースが遅い、って思いますか?」
山口さんが訊いてきた。どうやら今日が初参加の私の傍に付いていてくれるらしい。彼女も悠々とした様子だった。
「まあ、そうですね」
私が頷くと、山口さんは「ふふ」と笑んだ。
「でも、それくらいのペースがいいんですよ。これは大切なことなので、覚えておいてください」
その言葉の意味はすぐ思い知ることになった。
「はぁっ……はぁっ……きっつ」
ひたすら続いていた緩い上り坂は着実に足を疲弊させており、そこに止めを刺すような急角度の木段が現れたのだ。
数十分前の余裕はどこへやら、私は額から玉粒のような汗を流しながら苦悶の表情で一段一段上がっていく。他の人もきつそうにしていたが、山口さんは相変わらず鷹揚としていた。
木段を登り切った後はまた緩やかな道のりが続き、もう長く辺りを取り囲んでいた樹林を抜けると、開けた視界には一面緑が広がっていた。背丈の高い草が生い茂っている。
どうやらそれはススキらしく、秋には一面黄金色に染まって、垂れ下がった穂が風で波打つ光景が見事らしい。
「へぇぇ、それは見てみたいですね」
「とても良いですよ。その分、混雑していることが多いですけれど。それに、わたしは今の時期のこの蒼さも好きなんですよね」
山口さんの言葉に私は頷いて見せた。確かにこれはこれで初めて見るもので、素敵な景色だと感じられた。
両脇で生え広がるススキの間を通り抜けるようにして、どうやら最後の関門らしい階段を登っていく。
「ここを登り切れば、山頂まではあと僅かです。頑張りましょう」
私は重い足を上げるようにして一段ずつ登っていく。こんなにも苦しい思いをしたのはいつ以来だろうか。自分をとことん追い込んでいくような感覚。少なくとも、ここしばらくは覚えがない。
やがて、遂に山頂となっている広場へと辿り着き、私は大きく息を吐いた。
「やっと着いたぁ……」
「お疲れ様です。さあ、登り切った人間だけが見られるご褒美が待ってますよ」
そう言って、山口さんは両手を広げて山頂からの眺望を示した。
私は軽く息を整えて、眼下の光景に目を遣る。
「わぁっ……」
絶景だ。それも方向によって見えるものはまるで違っている。
濃密な緑が広がった大自然に連なった山並み、人が築き上げた市街地、豊かな海とそこに浮かぶ埋め立て地や島。
万華鏡のようだ。私は思わずくるくると動き回りながら堪能した。不思議と先程までの疲れは吹っ飛んでいた。
「北原さん、そろそろお昼にしましょうか」
山口さんから声が掛かった。言われてみると、空腹だったことを自覚する。
気づけば、他の人達も準備を始めていた。それぞれ自分が食べたい物や必要な道具を用意してきているらしいが、初参加の私は山口さんと相談してカップ麺だけを持ってきていた。
彼女が沸かしてくれたお湯を用いて出来たカップ麺を一啜り。
「ん~っ!」
私は自分の頬が緩むのを感じた。美味しい。もう何度も食べたことがある物のはずなのに、別物のように美味しく思えた。それは単に空腹だから、というわけではないだろう。
疲れ切った身体、どこまでも広がっているような景色、山頂ならではの涼やかで清々しい風。
それらが最高の食事体験を味わわせてくれていた。
「山頂でのご飯は美味しいですよね。これも登山の醍醐味の一つです」
私の様子を見て、山口さんは微笑ましそうだった。
やがて、食事を終えるとこんな風に言う。
「スープは捨ててはいけませんよ。飲み切るか、持ち帰るかです」
それから後始末について色々と教えてもらった。
アウトドア界隈で有名な言葉として、「Leave No Trace」というものがあるらしい。直訳すれば、痕跡を残さない、だ。
ゴミに関して言えば持ち帰るなんて当然のことに思えても、そうでない人間も確かにいて、だからこそしっかり広めていく必要があるのだろう。
それの自らの務めとして果たそうとする山口さんは立派な人だと思えた。
「さて、そろそろ行きましょうか」
自分達がいた場所に何も残っていないことを確認してから、私達は山頂での休息を終えて下山を開始した。
到着した時に比べれば、随分と体力が回復していた。足取りが軽い。下りは来た道を戻っていくのではなくて、違う方向にある駅を目指して歩いていくので、新鮮な気持ちでいられたのも大きい。
掛かった時間としては上りよりも少し長かったが、それでも無事に歩き終えることが出来た。
「今日はどうでしたか?」
最後に山口さんに訊かれ、私は迷わず答える。
「楽しかったです!」
帰宅してからも胸のドキドキがなかなか収まらなかった。今も登山をして感じた達成感や充実感で満たされている。全身には心地良い疲れ。今夜は良く眠れそうだ。
ああ、これは……嵌ってしまったかもしれないな。
私はしばらくの間、自らの心を打ち抜いた煌めきの余韻に浸り続けるのだった。
八経ヶ岳の山頂、その先に広がる新たな旅路
私が『ギルド』に入ってから三年が過ぎた。この三年間で色々な山に挑戦してきたが、まだまだ初心者だという意識は抜けていない。
そんなある日、山口さんから「冬の八経ヶ岳を登頂してみませんか?」という連絡を受けた。どうやら『ギルド』の中でも私のようにすっかり登山に嵌っている人を対象としているようだった。
私は二つ返事で了承した。冬の登山はまだ簡単なものしかしたことがなかったので、ちょうど良かった。
そうして、当日。
私達は八経ヶ岳の熊渡登山口に車でやって来ていた。時刻は五時半。冬なのでまだ日も出ていない時間帯だ。
もうその地点から雪が薄く覆い尽くしていた。今年は寒冬で積雪量も多かったらしい。山中は酷い積雪となっているだろう。
雪上を進んでいくのは初体験だ。アイゼンやワカンといった冬の登山用の道具も買ったばかりの新品だった。
「いやぁ、ドキドキするなぁ~。ねっ、叶!」
同行者の一人が緊張よりも興奮という様子で声を掛けてきた。
彼女の名前は森田真千《もりた まち》。溌剌な雰囲気の女性だ。『ギルド』で知り合った。
同い年であり、同じ趣味ということもあって、自分でも驚くほどに仲良くなった。
社会人になってからは仕事の付き合いしかなかったので、まさかそんな相手が出来るとは思いもしていなかった。今では二人で登山に行くこともある程の親しい友人だ。
「真千はドキドキしてるようには見えないけどね」
「えー、そんなことないってば!」
そんな風に軽口を叩いていると安心するのを感じた。
「それでは、気を引き締めて行きましょうか」
「「はい、師匠!」」
山口さんの号令に二人で反応する。今では彼女のことを師と仰いでいた。この業界では指導者をそう呼ぶことが多いのだ。その呼び方が自然に思えるくらい色々なことを教わってきた。
私達はいよいよ八経ヶ岳へと通じる道へと足を踏み入れていく。
順調にいけば、日暮れ前に下山できる予定だった。十分な余裕も取られている。
しかし、登山とは予定通りにいかないこともある。思いがけない危機に陥ってしまうことが。だからこそ、私達はいつだって必要以上の荷物を持っていく。生き延びる為に。
この日、その必要性を改めて実感させられることになるのだった。
「うぅっ……全然前が見えない……」
私は強風と雪で視界が真っ白になっている状態に苦しんでいた。
既に登山を始めてから五時間は経過している。予定通りなら山頂に着いていた頃だ。しかし、実際にはまだその手前にある避難小屋まですら着いていない。
原因は主に私や真千といった新人組にあった。雪上を進んでいくことがスムーズにいかず、大幅に時間をロスしてしまった。
とは言え、山口さんはそれも織り込んで予定を立てており、その為に余裕のあるスケジュールとなっていた。
だが、そこで新たな問題として天気が急変したのだ。細かな雪が吹き荒び、視界を埋め尽くしてしまっている。ろくに前が見えない状態では慎重に歩まざるを得なかった。
こんな経験は初めてだ。ここまでの疲労も重なって、不安が押し寄せてくる。
けれど、そんな中で山口さんは篝火のように私達を引っ張ってくれた。
「もうすぐ避難小屋があります! 絶対に前の人を見失わないようにしてください!」
私達はただ山口さんを信じて歩いていく。もはやそれ以外に出来ることはない。
そうして、長い艱難辛苦の果てに、狼平避難小屋へと辿り着いた。
「死ぬかと思った……」
「ほんとそれ……」
私や真千は小屋の中に飛び込むや否や、全身から力が抜けたようにへたり込んだ。しばらく立ち上がれそうになかった。他の人も同様だ。
けれど、そんな風に誰もが疲れ切っている中でも山口さんは冷静に外の様子を確かめていた。
「天気は回復しなさそうですね。今日は安全の為にここで休むとしましょう」
彼女がそう決断するのは早かった。自分だったらまだ時間はあるからと粘っていたかもしれないな、と思う。
けれど、そういう考えが命取りになることもあるのだ。まだまだ学ばされることが多い。
私達は山口さんの指示を聞きながら夜を明かす準備をしていく。
服やリュックに付着していた雪を払い落とし、汗で冷えてしまわないようにベースレイヤーを変え、張ったパラコードに乾かすべき物を吊るして干しておく。
持ってきていた食事や飲み物は大抵凍り付いていたが、バーナーで温めて夕食とした。味が変わってしまっているものもあったけれど、この際仕方がない。
夕食を終えると、緊急時のビバーク用に持ってきたソロツェルトを寝具代わりにして、身を寄せ合いながら眠りに就いた。
小屋の中は寒さこそあったが、頑丈な造りのようで風雪を見事に遮ってくれていた。
寒さに関してはボトルに沸かした湯を入れて湯たんぽ代わりにしたり、カイロを用いたりで何とか乗り切ることが出来た。
私や真千などは疲労感から泥のような眠りに落ちていたが、その間も山口さんは定期的にラジオで天気を確かめたり外の様子を確認してくれていたらしい。
そして、翌朝。
外はすっかり晴れ渡っており、前日の光景からはとても考えられなかった。山の天気は本当に気まぐれだ。
私達は再び登り始め、やがては遂に八経ヶ岳の山頂を踏んだ。
「着い、たーっ!」
「やったぜーっ!!」
真千とハイタッチする。その表情は解放感で溢れていた。
山頂に到達した時の達成感は何ものにも代えがたいものだ。もちろん下山するまで気を緩めるわけにはいかないが。
それでも、少しだけの間は自分にご褒美をあげたい。
私は視界を埋め尽くす眺望へと目を遣った。
昨日の天気はどこへやら、頭上には透き通るような青空が広がっている。
そして、眼下には雪化粧の施された山並みや木々が映し出されている。
それらはとにかく綺麗で、雄大で、美しかった。
「っ……」
その感動は飛び込んでくるように私の胸を打ち、気づけば涙が頬を伝っていた。
私はきっとこの体験を生涯忘れることはないだろう。
偶然『ギルド』のことを知って始まった旅が今、一つのゴールに辿り着いたように思えた。
この場所へと導いてくれた師匠や仲間には感謝してもし切れない。一人では決して辿り着くことは出来なかった。
そんな想いこそが私に新たな旅の始まりを感じさせるのだった。
『ギルド』に入ってから七年が過ぎた頃、私は山口さんに一つの相談をした。
「いいと思いますよ。北原さんなら大丈夫だとわたしが保証します」
そう言って太鼓判を押してくれた。それは私の迷いを打ち消すには十分だった。
また、真千にも相談した。
「いいね。叶は多分向いてるよ、そういうの。私はまだこれからどうしていくか考え中だけど、もし手伝えることがあれば手伝うし」
そんな風に言ってくれた。それは私に踏み出す勇気を与えてくれた。
そうして、それから一年が経過した現在。
私は『ギルド』を抜けて、自分で立ち上げた登山コミュニティを運営していた。
山口さんや真千に相談したのはそのことについてだった。
八経ヶ岳の登山から、『ギルド』を通じて自分が得たものを新しい人達に繋げたい、と思うようになっていた。それは憧れの師匠である山口さんがしていたように。
まだまだ分からないこともあるが、登山経験者で運営に協力してくれる人もいたので、こまめに話し合いをしながら手探りで何とか頑張っている。
今日は既に何度か行っている初心者向けの登山会だった。
待ち合わせ場所に参加者が集まりつつある中、不安気な表情でやって来た女性がいた。
それは以前の自分を思わせ、参加予定の初心者だとすぐに気づくことが出来た。
「初めまして」
私は当時の気持ちを思い出しながら、リラックスしてもらえるように明るい調子で声を掛けるのだった。
関西女子登山部☆
やまびとステーション▲▲▲BEGINING
-私が受け取った想い、届けたい想い- Fin
※岩湧山編、八経ヶ岳編として描いたエピソードは、この登山コミュニティを立ち上げるまでの過程や想いを物語にしたものです。この登山コミュニティを通じて、誰もがかけがえのない人との繋がりや絆を得られることを心から願っています。