大杉谷と親友と人生と
雨に沈みゆく気持ち
ゴールデン・ウィークに突入し、世間が一気に賑わい始めた四月末。
わたし──菊地《きくち》まりえはバスに揺られていた。既に辺りは濃密な自然で満たされ始めている。目的地はもう間もなくだ。
両膝の上には登山用の大きなザックを抱えており、それを見た隣の友人が何の気なしに言う。
「まりえのザック、ぎゅうぎゅうだね」
「色々考えると、なかなか減らせなくて……わたし、優柔不断だから」
「登山の荷物は個性が出るよねー。私なんかなるべく軽くしたいって思っちゃうから。もちろん緊急時用の物はちゃんと入れてるけどさ」
「やっぱりもっと軽くした方が良いのかな」
「うーん、それは何とも言えないなぁ。時と場合によるだろうし。まあ、もし重かったら言ってよ。私のザックに移してもいいからさ」
「うん、ありがとう、エマ」
やがて、バスが緩やかに停車し、わたし達はザックを背負って降り立った。
三重県にある関西屈指の秘境とも言われる峡谷、大杉谷。その登山口だ。
わたしと共に降り立った同年代の女性は、しなやかな肢体を目いっぱい広げるように伸びをする。その視線は遠景に広がる鬱蒼とした木々へと向いていた。
「さぁて、気合い入れていかないとね」
彼女の名前は花岡《はなおか》エマ。良く似合ったアッシュブラウンの短髪に、モデルのようにスレンダーな体つきは、凛々しくも柔らかな雰囲気を発している。
今日は二人で登山に来ていた。大杉谷から大台ヶ原を目指すコースとなっており、一泊二日なので、お互いに大きなザックを背負っている。
わたし達は北原叶《きたはら かなえ》さんという年上の女性が立ち上げた登山団体に所属している。内気なわたしにエマの方から話しかけてくれたのが知り合うきっかけだった。
明るくサッパリとした性格の彼女は同い年だったからか、不思議な程わたしに声を掛けてくれて、今ではこうして時折二人だけで登山する仲になっていた。
主に彼女が誘ってくれる形だ。お互いの職種の関係上あまり多くはないが、年に何度かは来ることが出来ている。
今日は生憎の曇り空だった。頭上は分厚い鈍色の雲で覆われてしまっている。
ただ、この辺りはとても雨が多いようで悪天候は珍しいことではなく、昨日や一昨日も降っていたらしい。
明日の天気予報は晴れになっていた為、今日が曇りで降る可能性が十分にあっても決行した形だ。もちろん雨対策は用意してきているけれど、出来れば降らないで欲しいと思う。
「それじゃ、行こっか、まりえ」
「うん」
エマの言葉にわたしは頷き、発電所の横を抜けて自然の中へと踏み入っていく。時刻は十二時だ。
足元はすぐに岩場へと転じて、右手側の岩肌に設置された滑落防止用の鎖を握りながら、道を進むことになった。
と、その最中にエマが鈍いうめき声を漏らす。
「げっ……」
わたしも遅れてその理由に気づいた。
「雨……」
どんよりとした天から滴り落ちてくる細やかな水が、身体や辺りの地面を打ち始めていた。
わたし達は慌てて足場が安定した場所まで行くと、レインウェアを取り出して羽織った。ザックにはレインカバーを掛ける。
「まりえ、足元に気を付けてね」
「エマも気を付けて」
「もっちろん」
樹林の間を行く道、鎖を掴みながら岩場を行く道と交互に現れながらその間には、峡谷をさやさやと流れ行く宮川の対岸へと渡された吊り橋を抜けることで、上流へと登っていく。
地面が着実に濡れていっているので、慎重に歩みを進めた。
そうして、登山口を出発してから一時間程度で、お昼の休憩スポットに考えていた京良谷へと到着した。
「晴れの日は水が綺麗なエメラルドグリーンに見えるって話だけど……」
「……昨日も雨降ってたみたいだし、濁ってるね」
わたし達は河原へと降りて宮川を近くで眺めた後、傍の木の下で昼食にした。
天気が良ければ少しのんびりしても良かったが、この天気では簡単に済ませてさっさと出発することに決める。
そこから先はこれまでよりも険しい道のりとなっていた。
雨脚は徐々に強まっており、急登となっている岩場もあって、それらはわたしの体力を着実に奪っていく。
対して、エマの足取りは変わらずしっかりしており、疲労の色は見せていない。
彼女は昔から運動を良くしていたらしく、体力があって器用でもある。本ばかり読んでいたわたしとは大違いだ。
その上、持ち前の陽気さで誰にでも好かれている。そんな姿はわたしにとって憧れだった。
だから、置いていかれたくない。付いていきたい。
そう思って身体を動かすが、現実は無情で、少しずつ遅れ始めていた。
そのことに気づいたエマが言う。
「もう少しペース落とすね」
「だ、大丈夫、頑張るから」
「駄目駄目。無理したら危ないでしょ」
「……うん、ありがとう」
京良谷から一時間余りで千尋滝に到着した。
そこに設置された東屋では、見上げんばかりの高さから清流が岩肌を伝って落ちてくる姿が見られる──はずだけど、残念ながら雨で煙っており良く見えなかった。
わたし達はガクッと肩を落とし、修行僧のような気分で歩を進めていく。雨中の山行はどうしても森林浴気分ではいられない。風景を楽しむよりもとにかく前へという意識になってしまう。
十五時前にはシシ淵に到着した。
両脇を巨岩と樹林に囲まれており、目の前には川の水が溢れ出していて、その奥には微かに滝が見えた。
ここ数日と今の雨で水量が上がっているらしく、ネットで見た写真よりも遥かに荒々しい雰囲気に感じられた。
辺りの岩場も半分ほどは水に浸かって浅い川のようになってしまっているので、晴天時のようにのんびりと眺めるわけにはいかない様子だった。
わたし達は露出した岩場を頼りに渡渉していく。
落ちても死ぬような深さではないが、身を凍えさせるような恐怖心は自然と湧き上がってきた。
濡れた岩場に何度か肝を冷やしながらも、慎重に踏み締めて行き、無事に乗り越える。
「ふぅ、怪我無く渡り切れて良かった。さ、後は予約した山小屋に行くだけだ。もうひと踏ん張りだよ、まりえ」
「頑張る……」
わたし達は少しだけ休憩してから、なだらかな道のりを進んで行った。
雨は相変わらず降り続いており、全身にまとわりついてくるようで不快感との闘いだった。
わたしの全身は悲鳴を上げるようになっていたので、歩くペースがみるみる遅くなっていき、エマに合わせてもらうのが申し訳なかった。
吊り橋の向こう側に目的の山小屋が見えた時には安堵感で膝から崩れ落ちそうだった。
そうして、わたし達は大杉谷の中にある山小屋の一つ、桃の木山の家に到着した。時刻は十六時過ぎ。予定よりも随分と遅れていた。
「うへぇ、中まで濡れちゃってる……これはまずったなぁ。上は一応あるけど、下は持って来てないのに」
入口前でレインウェアなどの対処をしながら、エマがそう呟いた。
それを聞いたわたしは自分のザックから一つの物を差し出す。
「このタイツ、良かったら使って」
「え、それは助かるけど……まりえはどうするの?」
「大丈夫、それはパジャマにするつもりで、別に替えのパンツも持ってきてるから」
わたしがそう言うと、エマは呆然とした顔でこちらを見た。
「ど、どうかした……?」
「……いや、用意周到だなぁ、と思ってさ。天気予報では一応曇りだったのに」
「日本有数の雨が多い地域だって言うし、こういうこともあるかもしれないって思ったから」
その説明にエマは納得したように頷いた。
「ありがとう。有難く使わせてもらうね」
受付を済ませると、わたし達はそれほど待たずに風呂に入らせてもらえた。大勢が入れるようなタイプではないので、登山客がそれほどいなかったことが幸いした。
檜風呂だ。良い香りと温かなお湯が疲れ切った全身に染み入っていくようだった。石鹸やシャンプーは環境への影響の関係で使えないが、雨と汗でぐちゃぐちゃな身体を洗い流すには十分過ぎるくらいだ。
夕食はトンカツやハンバーグといったボリュームたっぷりの定食だった。食が細いわたしには少し多かったが、エマは当然のように全て平らげていた。
二階に上がると大部屋の寝所になっており、通路を挟んで左右にそれぞれ畳が並んでいる。一畳ごとに布団が一枚敷かれていて、それが一人分のスペースだった。
登山客が多い日は圧迫感がありそうだが、今日はあまりいないので十分に余裕があった。
わたし達は翌日の準備をし終えると、朝が早いのでさっさと床に就いた。
今日はエマにたくさん迷惑を掛けちゃったな、と寝る前に自己嫌悪に陥る。
それでも沢のせせらぎを耳にしていると、あっという間に眠りに落ちていった。
晴れ渡る空の下で一緒に
わたし達は五時半に起床し、簡単に身支度を整えてから、純和風な朝食を頂くと、六時半には桃の木山の家を出立した。
「おぉ! 今日は絶好の登山日和だ!」
天気はすっかり晴れ渡っており、エマは足取りも気分も軽そうだった。
「そうだね……」
けれど、わたしは昨日よりも長距離かつ険しい道を行く今日のことを思うと、体力がないのでまた迷惑を掛けてしまうだろうと少し憂鬱だった。筋肉痛もある。
頑張ろう、という気持ちだけではどうにもならない過酷な現実。それはわたしの心を苛むようだった。
良く整備された登山道を歩いていく。早朝なこともあって地面はまだ濡れているので、岩場などは設置された鎖をしっかり握りながら歩いた。
一時間ほど掛けて崩壊地と呼ばれている場所に到着した。
2004年の台風で最も被害があったエリアらしく、峡谷を流れる宮川が岩で埋め尽くされてしまっている。その光景には自然の恐ろしさと同時に雄大さも感じられた。
十年かけて新しく登山道を作ったそうで、岩を登っていくような道のりだった。
「はい、まりえ」
「……ありがとう、エマ」
わたしはエマに手を貸してもらいながら何とか乗り越えると、そこからいくつかの吊り橋を渡って、堂倉滝に到着した。山小屋を出発してからおよそ二時間が経過している。
堂倉滝はシンプルで分かりやすく、如何にも滝という雰囲気だった。滝壺の近くまで行けるので、水が激しく流れ落ちる様をより感じることが出来た。
「昨日よりは水が澄んで見えるよー!」
「…………」
エマは水場にギリギリまで近づいていき、覗き込んでからこちらを向いてそんな風に言った。
その様子を座って眺めていたわたしは軽く手を振り返した。
この先は大杉谷を離れて日出ヶ岳を登っていくことになる。これまでは峡谷を歩いていくトレイルという側面もあったけれど、ここからはまさしく登山というような厳しい道のりとなるようだ。
しっかり休憩しておかなければ、とても身体が持ちそうにない。エマのように動き回ってはいられなかった。
「そろそろ行こう」
「オッケー」
ある程度の体力が回復したのでそう言うと、エマは頷いた。わたし達は樹林の中へと足を踏み入れていく。
そこからはこれまでにないような急登が一時間延々と続き、堂倉避難小屋に到着する頃にはわたしはすっかり虫の息だった。
椅子を見つけてへたり込むと、行動食として持ってきたエナジーバーを取り出した。
しかし、エマは何も取り出そうとはせず、荷物は下したものの立ち尽くしていた。
「……どうしたの?」
「いや、昨日思ったより行動食を食べちゃってさ、もうないんだよね。まあ、私はお昼までいいかな」
それを聞いたわたしはザックから同じ物を取り出すと、エマに差し出した。
「これ、あげる。まだあるから」
「わ、いいの!? ありがとう!」
エマは嬉しそうに受け取ると、隣に腰を下ろして食べ始めた。二人で並んでエナジーバーを口にする。
少しして、エマはふと思いついたように訊いてくる。
「まりえ、何か今日さ、元気なくない? 初めは疲れてるだけかと思ったけど、そうじゃないような気がする。もしかして体調悪い?」
「そんなことは、ないけど……」
「本当にぃ?」
エマに疑惑の目を向けられ、わたしは思わず目を逸らすが、すぐに居た堪れなくなって、押さえ込んでいた思いがポロリと零れ落ちてしまう。
「……昨日からエマの足を引っ張ってばかりで、今日はもっと頑張らなきゃって思ったけど、やっぱり上手くいかなくて」
一度口にしてしまっては、もう止まらない。ダムが決壊したみたいに、自分のみっともない部分がどんどん溢れ出していく。
「わたしもエマみたいに体力があったり器用だったり人付き合いが上手だったら良いなって思うけど、とてもそうなれそうにはないから。それなら、エマは本当はもっと同じようなペースでいられる人と一緒に来た方が楽しいんじゃないかって……」
わたしの独白を聞いたエマは真顔で言う。
「まりえは頭良いのに馬鹿だなぁ」
「うぐっ……」
その言葉はわたしにグサッと突き刺さる。けれど、エマはすぐに微笑を浮かべた。
「だって、私の方が体力あるとか器用とか、そんなの当たり前じゃん。私はさ、小さい頃から外で遊んでばっかだったし、中学高校も勉強そっちのけの運動部漬けだったわけで、身体を動かすことに関してはずっとやってきたんだよ。でも、まりえは違うんでしょ?」
「う、うん……家とか図書室とかばかりいた、かな」
「なら、そんな簡単に同じようになられても困るよ。積み重ねてきたものが違うんだから」
エマは非情な現実を突きつけながらも、「だけど」と逆接の言葉を口にした。
「それと同じように私にはなくて、まりえが積み重ねてきたものだってちゃんとあるんだよ」
「……えっ?」
「例えば、私はまりえみたいにたくさん本を読んだりしてきてないし。だから、何ていうか、想像力があるよね。ちゃんと色々な可能性を考えてるっていうか。今回もさ、私は天気予報で曇りだったから、せいぜい小雨くらいかなって油断して、軽量化を優先しちゃった。でも、まりえは色々考えてきちんと用意してたわけだ。それって私からすれば凄いなってなるし、昨日も今日もめちゃくちゃ助けられてるよ。特にあのタイツはないと体温の低下でやばかったと思う」
エマは手に持ったエナジーバーを見せつけるように軽く振り、昨日濡れたパンツの下に今も履いているらしいタイツを指先で示した。
「私達はいきなり誰かにも何かにもなれないよ。焦らず一歩ずつ地道に努力していくしかない。人生ってそういうもんじゃない?」
そんなエマの言葉に、わたしは知らず知らずに抱えていた焦燥感を思い知らされる。
それはまさに今自分達がしている行いと繋がっていることに気が付いた。
「焦らず一歩ずつ地道に……そっか、それって登山と似てるんだ。わたし、いきなり上級者向けの山を登ろうとしてたのかな」
「おー、確かに。あ、私はそういうまりえの言葉選びのセンスも好きだよ」
真っ向から好きと言われると恥ずかしい。しかし、エマは照れた様子もなく言葉を続ける。
「あと、まりえは勘違いしてると思うけど、私は別に誰とでも仲良くしてるわけじゃないからね? 人の善意を受け取るだけ受け取って、自分からは何もしない人とか嫌いだし。わざわざ角を立てるようなことはしないけどさ」
それはつまり、どういうことだろう。
わたしが首を傾げていると、物分かりの悪い生徒に教えるように、エマは告げる。
「私はまりえと一緒に登山したいから誘ってるんだよ。だから、他の人と来た方が楽しいなんて、そんなわけないじゃん」
「ごめん、なさい……」
「まったくもう」
エマは怒ったような素振りを見せるが、すぐにニコッと笑みを浮かべた。
「まりえが私のことを良いなって思ってくれるみたいに、私だってまりえのことを良いなって思ってるし、そんな風にお互いがお互いを目標に頑張っていくのって、何だか素敵な関係じゃない?」
一人相撲をしていた気分だ。ちゃんと話もせずに勝手に決めつけて、傷ついて、けれど、本当はこんなにも思ってもらえてて。彼女の言う通り、わたしは馬鹿だった。
「……うん。わたしも、そう思う」
わたしが頷くと、エマは満足そうにして、立ち上がった。
「それじゃ最後のひと踏ん張り、頑張ろっか。まりえのペースでいいからね」
「分かった。ありがとう、エマ」
わたしは胸の奥底に引っ掛かっていたつっかえが取れたことで全身が軽く感じられ、素直に彼女の善意を受け取れているような気がした。
登頂を再開する。目指すは日出ヶ岳の山頂だ。
変わらず急登が続く。わたしは汗水流しながら必死に足を動かした。エマはまだまだ余裕がありそうなのに、一緒に歩いてくれるのが嬉しかった。
やがて、シャクナゲが群生しているエリアへと突入する。見頃はもう少し先の五月下旬頃かららしいが、既に少しずつ咲き始めており、ピンクの花が道を彩ってくれていた。
そこを抜けても更に登り続け、昼過ぎになる頃、わたし達はいよいよ日出ヶ岳の山頂へと辿り着いた。
昨日の雨はどこへやら、澄み渡るような青空の下、山頂からの景色はキラめいて見えた。
ここまで辿り着くのは過酷という言葉では言い表せない程に苦しかったが、それでも、頑張って来て良かったと思える。
その旅路は一人ではなかった。彼女がいたから頑張ることが出来た。
だから、この思いをちゃんと伝えよう。
「わたしも、エマと一緒に色々な山を登ってみたい、これからもずっと。その為にもっと頑張ってみる。急になろうとするんじゃなくて、少しずつ、憧れた自分になれるように」
そう言うと、エマは嬉しそうに頬をほころばせた。
「またここも来たいよね。天気が良い時の大杉谷も見たいし、シャクナゲが見頃の時期も気になるし、もっと他の時期も良いかもしれないし」
「そうだね。きっとその度に違う顔を見せてくれる。同じ瞬間も同じ体験も二度とないはずだから」
一つの山を登り切ってもそこで終わりじゃない。次の山がわたし達を待っている。
焦らなくて良い。疲れたら休憩しても構わない。そうして、歩き続けよう、いつまでも。
「うぅっ、お腹空いた……」
急にエマがお腹を押さえてそう言ったので、わたしは思わず笑みを零した。
「そろそろお昼にしないとね」
わたし達は座れる場所に移動すると、昼食の準備を始めた。
その心中は頭上に広がる清々しい大空のように澄んで晴れやかな気持ちだった。
2022.04.29.30
関西女子登山部☆
やまびとステーション▲▲▲
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※この小説は実在するやまステ▲部員の登山でのエピソードを小説化しています。